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 コラムNo.06




縄文と弥生の巨大遺跡を見て感じたこと

平成17年7月 永谷芳郎


はるかな昔を想像して、写真と直接関係しないこと(盆地を考えていたので、その方面からの考察です)も書きました。 真実は誰も知らないから、好き勝手に書いています。考証もしていません。皆さんも勝手に想像してください。遺跡の写真に関しても解説していません。前後の写真を参考にして、想像をめぐらし、興味がわいた方は、現地に行ってみてください。


 

1.        縄文時代の三内丸山遺跡附近地図)、弥生時代の吉野ヶ里遺跡附近地図)共に巨大な木を使っています。木を切り、運び、穴を掘り、木を立てる。一連の作業が可能なのは、こうした専門の職人集団が既に出来ていて、こうした人を食わせるだけの蓄えがあったと言うことです。石器は鉄器の4分の一の効率(実験から)のようですが、大木を切り倒すことも出来た。道路も舗装されています。小牧野遺跡附近地図)ストーンサークルが、太陽に結びついていると考えるのが自然とすると、季節を予言する必要性が縄文にはあったと言うことです。季節が必要なのは、農耕です。狩猟や採集だけでなく、栽培もしていたと言うことです。漁業にも生かされたのではないでしょうか。鮭が遡上してくる時期を占うとか。大木を扱った技術が、飛鳥、奈良時代の巨大な寺院建築にも生かされてきたと思います。大陸から技術も人もやってきたでしょうが、それらが出来る技術を既に持っていたと考えるのが自然です。日本の国土面積は、ドイツより少し広いのです。昔の国の定義は曖昧ですが、はるかな昔、日本の人口が世界一になっていたこともあるそうです。今、経済大国となっていますが、この流れが既に縄文から始まっていたと考えれば、すばらしいと思いませんか。

2.        日本の川は、大陸の人から見れば滝らしいです。梅雨と台風、冬の雪を除けば、雨が少ない国です。一度に振ってくる雨水を徐々に下流に流れていくようにしたのが、稲作です。漁業も川からの栄養で成り立っています。漁業が盛んになったのも稲作のお陰です。稲作は、どの田んぼにも満遍なく水を貯める必要から、山の上から徐々に下の田んぼに水を供給しました。千枚田が出来た理由です。今のような平地の田んぼは、ため池が整理されてきてからです。田んぼに徐々に水を供給するため、山の木を整理しています。針葉樹と広葉樹が適度に混じることで、腐葉土が出来、この土が水を貯めています。川は曲がりくねって洪水の時には、氾濫することで調整をしています。今は、直線にしたため、雨が降ると直ぐに海に直行します。水が足りなくなったのでダムを築いています。急峻なため昔から、がけ崩れと戦っていて、砂防は国際語らしいです。下流に都会が出来たので、洪水調整にあふれさせる事が不可能になった現在は、ダムで調整することが、必要不可欠でもあります。ダムを作れば、山はどうでも良いものではない。山を考えることは、田んぼとなり、米となり、米の輸出入、自給問題まで発展する必要性がありそうです。

3.        盆地は、山に囲まれています。山から伏流水となって流れてくるので水の心配は無い。田んぼも周囲にあって食料も心配ない。木も豊富です。川を利用して、物資の輸送にも便利です。陸の米と海の魚が交換されたでしょう。たくさんの人口を抱えるには、最適な場所が盆地だったと考えます。周囲が山なので、防衛にも適していたのでしょう。田んぼと同じで、利水が整うことで、大阪、江戸へと進出できたと思います。

4.        素朴な疑問として、急峻なところに何故、田んぼを作るのか、ダムは何故作られてきたのか、都は何故、盆地に作られてきたのか、が少しずつ分かってきました。これはその一旦です。間違いがあるかもしれませんが、大筋こんなものではないでしょうか。

何らかの足しにしていただけると、幸いです。

 

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